Sunday, January 28, 2007

JE


どうも言語学というものを甘く見ていたようである。
そしてなんとも曖昧なものとして捉えていたようである。
知れば知るほど深みにはまってしまう。
日々、目から鱗の連続です。

そういえば、中国語を始めてみました。
とりあえず片方の手の指は使い切るくらいの数、
言語が話せるように。。。
一歩ずつです。

Friday, January 19, 2007

note


教育再生会議の第一次報告に関して、コメントを少し。
全体を通すと、
まずは七つの提言をひとつずつ。
①ゆとり教育を見直し、学力を向上する
具体的な基礎学力強化プログラムとして、習熟度別指導の拡充や地域の状況に留意した上での学校選択性の導入。まずひっかかるのが義務教育段階での習熟度別指導の拡充。高校受験を控えた学生達はともかく、その前段階で習熟度に大きなバラつきができることが問題。こうした教育の場における問題には常に教える側と教わる側に原因が考えられる。習熟度に関して言えば、まずは生徒の立場として、集中力というのが一番必要になってくるのではないだろうか。これが欠けると、肝心な要素をついつい見落としてしまう。集中力にムラができるのも、ADHDなど先天的、遺伝的なものでない限り、学校内外における生活の中に、気を散らす要因があるはずである。もしくは教える側の問題として、生徒の年齢、知識に応じて興味を引き出せないことが多いのかもしれない。加えて、習熟度別に指導する必要が生じるまで放っておくのもどうかと思う。先程も述べたように、生徒の集中力の欠陥に関しては社会的な要因が作用することが多く、それは様々な形でサインを出すはずである。義務教育期間は精神的にも身体的にも人生で最も成長する時期である。形式的に教える、教わるという関係だけでいいのか、それにはゆとり教育を見直すだけで足るのか、疑問がのこる所である。基礎教育に関しても、詰め込み、ゆとりといった「量」の問題でなく、「質」の問題がより大きいのである。
②学校を再生して、安心して、規律ある教室にする
出席停止制度を活用、警察と連携、反社会的行動を繰り返すこどもに毅然たる指導、といったことが挙げられているが、安心とは何か、規律とは何か、反社会的な行動とは何か、どれもが曖昧である。そして、曖昧がゆえにそのような原因はとりあえず排除しておけという。いじめを念頭においているのであろうが、いじめられる側のケアか、いじめる側のケアか、理想は常に両方を求めるのだろうが、後者の方が絶対的にケアの対象になるべきである。早い段階でいじめをキャッチするのは結構。その時に原因を隔離してもいたちごっこで終わってしまう。
③すべての子供に規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する
「道徳の時間」の確保と充実、高校での奉仕活動、の必修化、大学の9月入学の普及促進を対策として挙げる。道徳の時間を確保・充実。これはまず道徳とは何か、規範とは何か、根本的なところから見直す必要がありそうである。現状の社会に合ったものだけではなく、これからどういった国家像を求めるのか、そして達成のためにどういった国民意識を持たせるのか、そして基本というからには、スタンダードが存在するわけであって、基準は何か。横並びの意識を維持するのか。それに加えて奉仕活動の必修化。何をどれだけこなしたか、量で測るのは簡単であるが・・・
④あらゆる手だてを総動員し、魅力的で、尊敬できる先生を育てる
社会の多様な分野から積極的、大量に教員採用、メリハリある給与体系で差をつける、不適格教員は教壇に立たせない。これは本当に矛盾を多く含んだ項目である。そもそも魅力的、尊敬の対象といった主観的な要素を、どう客観的に定義し、「育て」るのか。個性がうんぬんとぬかして、生活とかいう時間を設けたかと思えば、一方では理想の人物像を教師の側に押し付けて、画一化を図ろうとする。無理ならやめさせる。教える立場の人間にとっては、国家と学生の双方からの圧力によって身動きができない状況となる。そして国家は指針は示すが、責任は取らないという、なんともわがままな考えを通そうとしているのである。
⑤保護者や地域の信頼に真に応える学校にする
「教育水準保障期間」による外部評価・監査システムの導入、副校長・主幹等の新設、民間人校長など管理職に外部の人材を登用。管理職が外部の人間というのは義務教育段階においては恐ろしい。上で述べたように、結果的に画一化を図るならどうして外部の管理職が必要なのか。文科省から直接派遣した方がよっぽど正確である。また民間人の登用は、生徒にとって、教育の場という意識を薄れさせる。こうした空間におけるメリハリは、学校教育において最も重要な要素のひとつだと思う。
⑥教育委員会のあり方そのものを抜本的に問い直す
危機管理チームを設ける、教職員の人事権は市町村にできるだけ移譲、教委の基準や指針を国で定めて公表し、第三者機関の外部評価制度を導入。上の項目でも第三者との連携を含むが、これは体裁を整える目的以外のなんでもない。そして、この項目は最も危険な因子を含む。地域色を十分理解したうえで、それに応じた教育の在り方が重要な中、基準や指針は中央政府が決定するという。
⑦社会総がかりで子供の教育にあたる
「家庭の日」を利用しての多世代交流、地域リーダー(教育コーディネーター)の育成。これからの世代には、家庭や家族がどういったものなのか、どう教えていくつもりだろうか。安易にこれらの言葉を使って、子供たちを戸惑わせている気がする。地域における多世代交流がその助けになるのか。これまた学校といった存在を曖昧にする要因ともなりうる。

以上で早急に対策が必要なものとして、「五つの緊急対応」
「ゆとり教育」の見直し=早急
教育委員会制度の抜本改革=07年通常国会に提出
教員免許更新制導入=07年通常国会に提出
学校の責任体制の確立等=早急に国会に提出
反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令、通知等の見直し=06年度中

全体として、トップダウンの教育システムを強固なものにしようとするのだろうが、曖昧な「規範」や社会といった言葉を多用して、混乱を招くと共に、国民の質がさらに画一化されるのだろう。軍国主義かと見紛う様な政策もちらほら見られる。それに加えて、矛盾する地域との関連求める。繰り返すが、半端な連携は学校という教育の場をとにかく曖昧な存在にするのであり、学生の心理的な混乱を招くと共に、行動のメリハリに関しても欠如を招くのである。加えて、この階級的な教育システムが確立することによって、責任は上位へと来ない。問題は切り離すのみで、他にいくらでも補充が利く。まさに一方通行の恐ろしい国家体制が再建されようとしている。今後の行方が心配である。

Sunday, January 14, 2007

HISTARTE

最近写真をあまり撮ることがないので、
少し前の写真から、今の僕に合ったものを探してきています。
今ちょっと、考えることが多すぎて、
その考えをここにぶつけることもままならない、
そんな状況です。
言語の構造的な違いっていうのは、
思想にも影響するのでしょうか。
アジア地域において、
イデア論のような抽象観念が存在してないのは、
少なからず言語の根本的な性質の違いが影響するのか。
それとも単にプラトンのような存在がなかったからか。
例えば前者がある範囲で妥当するとして、
じゃあ僕らが日本語でイデア論をどう論じても
無理が生じるのか。
それとも言語の欠陥ということでなくて、
イデアという観念がそもそも必要なかったのか。
誰か教えてください。

Wednesday, January 10, 2007

Behind

僕はどうも表通りの雑多な雰囲気よりも
路地裏のひっそりとした感じが好きなようです。

一見きれいな通りと建物
でもその裏側には、
社会がありのままに、
あるべき姿が存在する。

最近どうも
感性が鈍っているようです。
どうも向こう側が見えなくなってきている。
それが写真になると、モロに出ますね。
いかんいかん

Sunday, January 07, 2007

Bottle Rocket


Wes Anderson初期の作品。

1996年。

Owen Wilsonのデビュー作品。

僕は彼の映画の中における時間の流れが大好きだ。
彼の作品は、個々のシーンがメッセージを持つことはない。
でもその一つ一つが何か色を持っていて、
時にはそれが形になって、
Anderson自身のココロを暗示する。

何か最後に予想外な展開になるのだろうなぁ、
そういった運びもまたいいと思う。
そして期待を裏切らない。
映画の途中で、何かが喉の奥につっかえてるんだけど、
最後のシーンになると、すっとする。

この初期の作品においては、
まだぎこちない展開であるため、
全ての固体がラストシーンで収束しきれないが、
とてもいい映画だった。

派手なアクションもない。
甘いロマンスだってない。
でも、日常のように描かれる「非」日常。
そこに交錯する感情。
でも皆何かしら1つの共通するものを持っている。
なにか大きな・・・それが目標であれ、夢であれ、また別のものであれ、
彼の映画は、僕が忘れかけていたような、
その何かをいつも考えさせてくれる。

何かおススメの映画情報あれば、
よろしく。

Saturday, January 06, 2007

info


今日はまだ時間にも気持ちにも余裕があるので、
僕の大好きな地図について少し話そうかと思う。

地図と一言で言っても、その表し方や用途なんかによって様々な種類にわけられる。
世界地図を考えてみると、たぶん僕等の頭の中には大体似通ったイメージが浮かぶのだと思う。
そして、僕らは「平らな」地面に足をつけて生活しているから、ついつい世界地図がそのまま地球というものに対するイメージと結びついてしまう。地球儀ってものにあまり慣れ親しんでないからだろうか、「世界」というものを思い浮かべる時、言い替えではあるが、頭の中にすんなりと球体という「立体」としてイメージする人はそうはいないものである。
地球は球体(正確には地球楕円体っていう少し歪んだ形)である。
その球体を無理やりに平面に描きおこすものだから、どうしてもどこかで具合が悪くなる。そのため世界地図はどこに視点を置くのか、面積や距離や緯度経度といった要素のどれを正確に測るのかによってずいぶんと態様が変わってくる。それぞれに長所、短所があり、用途に応じて使い分けがされるのである。
もうひとつ、世界地図を頭に思い浮かべると、僕ら日本人にとってはどうしても日本が真ん中(緯度の違いこそあれ)にあるのがすっとくる。でも他の多くの地域ではイギリスが真ん中にきていることがほとんどである。まあこれは単に自分の国が真ん中に近い方が見た目が良いって事なんだろうけど、結構面白いのは、日本やイギリスっていうのはなかなかいい場所に位置している(あくまで地図上で)なぁ、ってこと。たとえばインドなんかが自国を世界地図の中心においたらどうなるか。アメリカ大陸は地図の両端に真っ二つに割れて描かれることになる。これだとなんかしっくりこない。やっぱり大陸はきちっと収まった方がなんとなく、見栄えがいいものである。まあ実際日本もど真ん中にあるわけではなく、東経150°が真ん中にある(以上の話はあくまで円筒図法においてのみ)。僕等のイメージする地図ではどうしてもアメリカ大陸は右側に、ヨーロッパやアフリカ大陸は左側に位置してしまう。だから、僕らはアメリカとヨーロッパってのがどれくらい近いのか、あまりよく知らなかったりする。
ただし、飛行機であっちこっち飛び回ったり、旅行してまわらない限り、僕等の生活圏は世界の中でも、本当にちっぽけな地域においてのみである。日本地図でもまだまだ縮尺が大きすぎる。
余談ではあるが、世界地図や日本地図といった話をすると、いつも壱岐出身の友人が思い出される。彼は地図を描く時、かならず九州の少し北に壱岐をドットで示すのである。確かに、自分の生活圏から離れるほど、頭の中でのイメージは大雑把になってゆくのであり、日本から遠く離れた国の人々が日本の位置や形を示せなくても当然無理はない。
さて、話題を戻すと、さらに縮尺を小さなものにして、道路地図や市街図といったものが存在する。しかし、時にそれでは普段の生活において、余計な情報であふれていることがほとんどなのである。人に道を聞かれて、行き先までの地図を描くとき、必要な道路や交差点、目印となる建物や看板などが示されていれば、別に縮尺が正確でなくとも十分である。こうした、必要な要素を強調したものが主題地図と呼ばれる。実は地図の歴史もこの主題地図から始まった。詳細はここでは述べないが、こうした、客観的だったり主観的だったり、その情報によって、地図は大きく変容するし、逆に僕らが地図を読むとき、誤った情報を得るという可能性は大きいということだ。今は人工衛星の発達によって客観的には限りなく正確な地図情報を得ることができる。しかし、そこに統計的な情報が加わったり(例えば所得や人口密度による色分けなど)、主観的な(主題地図としての)要素が加わった時に、目の前の地図からどう必要な情報を読み取るのか、その手段が重要になるのである。
1枚の紙の上にあるマクロな世界、そして限りない情報、そこに魅せられてもう随分となる。まだまだ地図を読むことに飽きることはない。こうして時間を潰しながら、その向こうに何か大きなものを夢見ているのである。Google Earthとかほんとに毒。シュミット氏も余計なものを世に送り出して~。ありがとう。

Wednesday, January 03, 2007

reNEW


さて、年が替わりましたね。
皆さんも良いお正月を迎えられたことと思います。
今年のsLow、少し前年とは違った形にしようかなぁと、
そんな風に考えています。

といってもまだ特にアイデアがあるわけではないんです。

とりあえず1月の間ゆっくりと今年の目標でも考えよう、
それからこのブログをその目標達成のプロセスと関連付けて、
僕自身とともに、人生の、そしてブログのテーマにもあるように、
「ゆっくり」と前に進んでいけたらいいなぁと思っています。


前学期は環境政策の授業を取ったこともあり、
環境とか、生態系ってものの側面から人間の価値観や社会の盛衰を考えてみたんですが、
そういった事からいうと、今年前半は大きく転換しそうです。
僕がこんかい取る授業の中でも、特に関心が高いものが
犯罪学です。
なので、そういった観点から、人間の、そして社会の有様を探っていくことになるかと思うんですね。
そしてもう1つ、美術と言語っていう授業。これはフタを開けてみないと内容はわかりませんが、
これも頭の整理も兼ねて、ここに何らかの形を残していくかもしれません。

なるべく簡潔な文章と、
そしてどこかでヴェンダースを意識している写真を載せていくよう心掛けます。
前回の投稿の繰り返しになりますが、
どうかこの1年が皆さんにとって良いものになりますように、
失礼は承知で、微力ながらお手伝いできることを、願っています。
お互い尽力しましょう。

では、今年もよろしくお願いします。
管理人