Wednesday, March 28, 2007

Personal Space

僕は他人と距離を取るのが下手である。

自分の物差しをいつもあてはめるもんだから、

つい相手の入って欲しくない領域にも

ずかずかっと入り込んで、汚している。

そのくせ

他人が自分のPersonal Space(以下PS)に入ってくると、

なんとも気持ちが落ち着かない。

こんなわがまま通せるのも、

ほんとに友達のおかげだと思う。

みんな笑ってくれている。

さて、難しいことはやめて、

物理的な距離ってことでのPSについて

少し考えてみたい。

僕は人が好きで、

よく友達とカフェに座っては、実のない話に

花を咲かせている。

でも物理的にある一線を越えて相手が近づくと、

急に身体が固まって、

話も聞こえないし、

いわゆる挙動不審ってやつに陥る。

例えば横に並んで歩きながら話しているとき、

ふと相手の方に顔をむけて、

思ったよりも近くに、目の前に相手がいたらもう駄目だ。

まっすぐ歩くことはもはや出来ずに、

適度なPSを保ちながら歩くことばかりを考えてしまう。

結果、よく歩道から出てしまったり、

相手の反対側に回ってみたり、後ろを歩いたり、

もう平静を保てない。

全くの他人ならばある程度の距離は

誰にも必要だろう。

良い例はエレベータだろうか。

エレベータに乗る時に、もし先に誰かがのっていたら?

ほとんどの人が先に乗っている人の

対角に立つのではないだろうか。

僕は旅行が好きだし、

飛行機が大好きだ。

でも、すぐ隣に知らない人が座るあの空間、

どうも緊張しっぱなしで、眠れたためしがない。

カフェでテーブル越しに、カウンター越しに話す。

それくらいがちょうどいい。

Friday, March 23, 2007

Moral


モラルは社会によって作られる。

それは一定の形を留めることはないし、

ユニバーサルにもなりえない。

このプラトニックな問いを

様々なスケールで用いることは

ほんとに難しい。

日本人としてのアイデンティティと

外国人としてのフレキシビリティ。

国際人として

何が求められるのか、

グーグルじゃわからない事がたくさんある。

Thursday, March 22, 2007

デザインが語るもの

 2.デザインとアート
このようにオーナメントはそれを所持する者の権力や地位といった抽象的な概念をビジュアル化したもので、具体的な形にはなりえない。そしてそれを見る者の解釈によって、双方の関係を決定するのである。一対多数の関係において、オーナメントの持つ役割は大きい。アートは視覚的な表現の解釈という点においてはオーナメントとあまり違わないようだが、アーティストがコミュニケーションの主体となっている点においてはその役割を全く異にする。つまりアートはアーティストのアイデンティティーや思想をビジュアル化したものであって、所持者のステータスを象徴するものではない。そしてもう一つ重要な点は、オーナメントはデザインの上にのみ存在するのに対し、アートは必ずしもデザインを必要としないことである。アートはコミュニケーションの主体であるが、それは必ずしも一対多数の関係を必要とするものでないし、社会的な役割を持つ必要もない。そのためデザインの持つ実用性と独立して存在するのである。あくまでも視覚的な表現であるため、アートはデザインの上に存在することももちろん可能だし、それを包括することもできる。こうしてアートというコミュニケーションの手段を手に入れることで、人類の視覚文化は飛躍的に豊かになった。今「文化」という言葉を用いたが、このことはパラドキシカルな要素を持つ。文化=カルチャーは個人において存在することはなく、常に社会によって形成される。つまりアートはその存在する社会を反映した一方的な視覚表現文化ということができ、多くの場合社会的、政治的なイデオロギーを持つ。そして資本主義社会が形成される過程において、アートの持つイデオロギーは、デザインの持つ実用性との関わりをより深めていくのである。

Sunday, March 18, 2007

Visible Sound

音を観る

ちょっとおかしく聴こえるかもしれない。

僕もつい先日まで、音は聴くものだとばかり思っていた。
もちろんそれは間違っていないが、それだけでもないのだ。

友人の卒業前のリサイタルに呼ばれた。
彼女が演奏するのはパーカッション。
僕は音楽には疎いのだが、マリンバとヴィブラフォンだったと思う。

会場が小さいということもあって、
彼女とかなり近距離に座る。

僕は普段コンサートでは、
安い学生席に座るのだが、
とりあえず音が聴こえれば一緒だろう、と満足していた。
時には目を閉じて、耳に音を集中させる。

どうやら今回は様子が違いそうだ。

ステージに彼女が現れる。
黒のパンツに黒のシャツ、
いつも降ろした髪をきゅっと上で束ねている。
これから演奏するというよりは、舞台の黒子のよう。
しんと静まり返った空気
彼女は一言も発さず、
深々と頭を下げると、
4つのマレットを手にする。

マリンバの前に立つと、
大きく深呼吸し、
ゆっくりとマレットで空気をなぞる。

その時から、彼女とマリンバとの間で対話が始まっていた。

僕の身体が緊張で震える

彼女はマリンバに向かって強くうなずくと、
勢いよく息を吸い、
マレットを大きく振りかざす。

会場の緊張はピークに達する。

しかし彼女はその手をゆっくりと降ろし、
そっと、マリンバの上を滑らせる。
一つ一つの音が彼女と、そして会場の空気と共鳴する。

僕は彼女から目が離せず、
マリンバの音を聴くよりもむしろ
彼女とマリンバとの間の会話、
いや、むしろフィジカルなコミュニケーションを、
視覚的にとらえる。

僕の頭には
なぜか歌舞伎が浮かび、
目の前の光景は
超音楽的な、
今まで感じたことのない世界であった。

共鳴がやむと
彼女はまた深々と頭をさげて
闇に去っていく。
いつのまにか僕の手は
汗がにじんでいた

Friday, March 16, 2007

Gordon-San

昨日ベアテ・シロタ・ゴードンさん(Beate Sirota Gordon)のお話を
聞かせて頂いた。彼女の経験はいくつか本にもなって出版されているし、
どうやら映画かもされたようなので、名前を聞いたことがある人も多いのではないだろうか。

簡単に言えば、
その日本語能力をかわれて戦後GHQの元、
若干22歳にして憲法草案の作成に携わった女性。

女性の地位の確保に尽力し、
その功績は、日本国憲法第14条、24条に集約されている。
ちなみにここで、その評価を行うつもりはない。

幸運にも最前列の席
僕の目の前に姿を現したその女性は、
一通りの紹介が済むと、
ざっと室内を見回した後、
ゆっくりとその小さな口から言葉を紡ぎ出す。

83歳という年齢とは思えない。
凛としていて、
外から見ても、芯がしっかりとした女性だと分かる。

内容に関しては、
本に書かれている以上のことはないが、
やはり本人を目の前にすると、
迫力がちがう。

講演の後、
少しだけお話をする機会を頂いた。
といっても、帰り際の彼女を捕まえて。
ほんの立ち話程度。

今の僕と同じ年齢で、
日本の憲法草案に関わった女性。
彼女の前に立った途端に
何もかもが恥ずかしくなってしまった。

そんな僕を、
ベアテさんは笑顔で、
「がんばってね」
そう言って帰っていかれました。
何か大きなものを得た、そんな気がします。

Tuesday, March 13, 2007

POLITICS

ほんとに日本の政治は見苦しい。

大体国会の答弁をなんだと思ってるのか。

ガキの喧嘩か。

野党はもう少し別の視点をもてないのか。

腐ってそう長いわけではない。

過去の政治が結果として間違っているかどうかの議論はさておいて、

体制として

特に80年代後半以降、

見苦しい。

Sunday, March 11, 2007

BODY


デトロイト市内の科学館に行って来た。

目的は「人体の不思議展」

日本でもかなり人気の高い展示ではないでしょうか。
数年前に福岡で行ったのですが、
その時の興奮を今でも覚えています。

週末ということもあり、
さすがに館内は人であふれていました。

改めて、
人間の身体ってよくできてるなぁ~
と感じさせられました。

デトロイトってこともあるんでしょうか、
液体樹脂によって、プラスチック化され、
並べられた人体を見ているうちに、
頭の中では人体の製造工場が浮かんでました。

車の工場のように。
ベルトコンベヤーに乗って、
等間隔で、次々と人体が出てくる。
違いがあるのはサイズだけ。

髪の毛とか、皮膚とか、脂肪とか、
そんなのは後付け。
「中身」はけっこう似たようなもんだなぁ~
そんなことを考えてました。


そういえば、展示の会場は
日本でいう「青少年科学館」みたいなとこ。

日本では博物館での展示だよなぁ~
そうやって展示する場所が違うと、
同じものでも、
見方や、感じ方が
変わるのかな。

たとえば印象派の絵を
科学館に展示してみる。
解説はもちろん科学的、
そんなのがあったらきっと面白いだろうなぁ~

ちなみに写真はLucas CranachのAdamとEve
(the Art Institute of Chicago)

Friday, March 09, 2007

ANDY


久々に本屋さんをぶらっと。

前々から気になっていた本を購入。

「The Philosophy of Andy Warhol; from A to B and back again」 (Andy Warhol, 1975)

まぁ読む時間はないのだろうから、

帰福の際の飛行機でのお楽しみに取っておこう。

アンディの美術館にはとうとう行けなかったなぁ。

デザインが語るもの


1.デザインとオーナメント

 人類が道具を手にするようになってから、常にデザインは存在し続けてきた。デザインとは生活の中にある実用性の形であり、そこには視覚的な効果も必要なければ、アイデンティティーを主張することもない。しかしデザインは常に一定ではなく、生活の変化に伴い、常に新しい実用性を形にしてきた。まだ生活の基本が採集と狩猟であった頃、デザインは単純な武器や道具、衣服として存在した。当時は常に獲物を求めて移動が強いられていたために、小規模な集団による共同生活であった。農耕によって定住生活が可能になってからは、さらに複雑な道具が生まれ、居住空間を作り出し、そしてストックのための容器が作られる。移動の必要性がなくなったことから、より大きな単位の集団が誕生し、それまで協力的であった生活も、ストックによって競争的な生活へと変化する。集団は内部においてのみならず、近隣の集団とも階層的な関係を持つようになったのである。社会がより複雑な階層性を持ち、より大きな規模になると、少数の上位層が大多数の下位層を支配するには、物理的な量や力そのものよりも、その力や豊かさを象徴する抽象的な要素が必要となる。最初は単なる税としての穀物や生活用品の納付も、次第に量よりも「形式」が重要視され、儀式的な要素が多く取り込まれた。そして「儀式」の際に使用される容器や道具は、実用性というデザインのみを備えたものであったが、その表面には細部まで凝った模様が施されるようになる。これがオーナメントである。オーナメントは複雑さを増すごとに、より高度な技術を必要とし、より多くの労働や努力が加わることになる。そして集団内部において自己の存在の優劣を象徴するのはもちろん、対外的にも豊かさや権力の強さを示す役割を持つのである。しかしオーナメントはデザインと違い、実用的であることはなく、視覚的なものでしかない。そしてオーナメントがどれだけ複雑であっても、象徴するのは決してそれに関わる技術者や労働者のアイデンティティーではなく、あくまで所持者のステータスなのである。オー ナメントはごく一部の人間関係においてのみ意味を持つのであり、所持者の権力や利害と全く関係ない存在にとっては何ら役目を果たすことはない。

Wednesday, March 07, 2007

KEJIME

楽しい時間は速くすぎてしまうもので、
いつものように図書館に戻ってきたのだが、
なかなか現実の世界に自身を引き戻すのは難しいものである。

そして半端な気持ちでやってるもんだから、
フィジカルな負担もかなり大きい。

あと6週間。

そう自分に言い聞かせる。
昔からそうであるが、時間の使い方がとにかく下手くそだ。
結局何の特にもならない皮算用ばかりを繰り返して、
時間という貴重な資本を失う。

こんなことなら、せめてゆっくり睡眠をとったほうがマシなのか、
でもそれはそれでどうも踏ん切りがつかない。

そういえば、
けじめって
不思議な言葉だよなぁ・・・