Thursday, November 30, 2006

Service


良いサービスとは一体どのようなものなのか。
今日はそんなことを考えながらバイトに耽た。

1対1としてのサービス。

1対多数としてのサービス。

お客さんの立場からすれば当然に1対1のサービスであろうし、
一般のサービス業の立場からは、どうしても1対多数のサービスになりがちである。
なりがち、と言うとどうも聞こえが悪いが、
本当に1対多数のサービスが劣るのか。

お客さんは
お金を払い、サービスという形でその対価を得る。
多くの場合には物質を伴って。
人間というのは貪欲なもので、
支払った金額相当のサービスを受けても、それだけでは満足せず、
何らかのプレミアを求める。

それはちょっとした気遣いだったり、
笑顔だったりといったもので足るのか。
それとも“お客様”として扱われることなのか。

うむぅ
とにかく
目の前の客は片付けた。

Tuesday, November 28, 2006

Potential


人間は極限に達した時、
とてつもない力を発揮したり、
やけに頭が冴えたりするものだ。

かつて釈迦は菩提樹の下で
49日の観想の後に悟りを開いた。
その前には
6年にも及ぶ苦行を遂げている。

こうした極限状態に
自ら身を置くにせよ、
周囲の環境からそのような状態にならざるを得ないにせよ、
繰り返すが、
人間は今までにない力を引き出すことができる。

潜在能力というものか。

訓練によって、
自在にその力を操れるようになるのだろうか。

そんな力は
己の中でいまだ目覚めようとしない。
あと2週間、
短いようで、
長いものだなぁ。

Friday, November 24, 2006

HAKATA JAPAN


うつくしきもの、瓜にかきたるちごの顔。すずめの子の、ねず鳴きするにをどり来る。
二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひ来るみちに、いと小さき塵のあり けるを、目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、おとななどに見せたる、いとうつくし。
かしらは尼剃ぎなるちごの、目に髪のおほへるを、かきは やらで、うちかたぶきて、ものなど見たるも、うつくし。  
大きにはあらぬ殿上童の、装束きたてられてありくも、うつくし。
をかしげなるちごの、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、い とらうたし。
雛の調度。蓮の浮き葉のいと小さきを池よりとりあげたる。葵のいと小さき。なにもなにも、小さきものは、みなうつくし。
いみじう白く肥えたるちごの、二つばかりなるが、二藍のうすものなど、衣長にて、たすき結ひたるがはひいでたるも、また、短きが袖がちなる着てありく も、みなうつくし。
八つ九つ十ばかりなどの男児の、声はをさなげにて文読みたる、いとうつくし。
にはとりのひなの、足高に、白うをかしげに、衣短なるさまして、ひよひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに、たちてありくも、をかし。
また、親の、 ともにつれてたちて走るも、みなうつくし。  かりのこ。瑠璃の壷。

かわいかもんは、うりに描いとー子供ん顔。
すずめん子のねずみのごたー鳴きながらはねてくるともかわいかね。
2つ3つばかしのこどもの、いそぎながらはって来よーときに、小さかほこりんあるとば、よー見つけて、
これまたかわいか指でつまんで、大人に見せとーとも、ばりかわいかぁ。
頭ば尼そぎにしとーこどもの、目に髪がかかっとーとを、はらいもせんで、首ばかしげて、物を見とーと、かわいかぁ。
そげんまだ大きない殿上童ん、装束ばきてからあるくとも、見よってかわいか。
・・・・

あ、枕草子のうつくしきものを博多弁訳しようとアホなこと考えながら
途中でわからんくなってしまった。想像はできるが、ウソはかけないし。
まあそれだけヒマってことだろうか。やばい、空の色がやばい。

Tuesday, November 21, 2006

Home


にんげんが
旅をするのは
帰る家があるから

そんなフレーズが長渕 剛の歌にあったのを今でも覚えている。
まさにその通りである。
こうやって落ち着ける場所があることを知っているから、
不慣れな環境でも精一杯やっていける。
こうやっていつでも温かく迎えてくれる場所があることを知っているから、
また気持ち新たに次の一歩を踏み出せる。

僕には
2つの家族がある。
日本とアメリカに1つずつ。
どっちも僕にとっては
大切な家族で、
両手をいっぱいに広げて迎えてくれる。

次の旅へ向けて
しばしの休息。

Thursday, November 16, 2006

Burn, Bury, or Recycle


普段あまり意識しないが、日本は先進国の中でもゴミのリサイクルが非常に進んでいる。リサイクルというからには、もはやゴミではなく資源なのか。少し前までは日本でもそうだったように、ほとんどの国ではゴミはゴミで、とにかく袋に詰めておけば処理場に運んでくれる、まだまだそれが現状だ。先進国においても、燃えるごみと燃えないゴミの区別がされる程度か。大学や官公庁など公共機関においては紙のリサイクルも行われているようだが、一般家庭までにはなかなかその意識は浸透していない。

さて、日本の通りを歩くと、曜日によって色の違う袋が並び、それも透明でちゃんと中が見えるようになっている。ゴミ袋の有料化なんてのもまだ新しい。環境政策を考える時、まず3つの大きな柱がある。ひとつは人々の環境に対する意識で、これは教育やトレーニング、モラルの向上や技術面でのバックアップなどが含まれる。そして馴染み深いのがいわゆる規制というもので、量的な規制、罰金などによるものと、政府などの機関による直接のコントロールがある。そして最後がインセンティヴで、税金や補償金などがある。ヨーロッパの国々においては最初の柱に重点を置くために、その効果が出るまでに長い時間がかかってしまう。しかし、その意識がひとたび浸透してしまえば、あとは極小のコストでリサイクルごみの収集が可能となる。それに比べてリサイクル大国日本では後者2つを採用した。これは直接的で、その効果も大きく、すぐに数字として現れるが、その背景として、収集にも膨大なコストがかかっているのが現状である。そして規制といった言葉に過敏な人々はなんとか逃れようと、けっきょくいたちごっこになってしまう。

さて、そうやっていつの間にかリサイクルのシステムに取り込まれた日本人だが、その意識はあまり高いとはいえず、実際どれがリサイクル可能なゴミで、どれが不可能なのか、どれがリサイクルされたものなのか、曖昧なことが多い。例えば紙のリサイクルも、感熱紙や色のついた紙、シュレッダーにかけられたもの、インクの種類なんかでもそのコストは変わってくる。プラスチックは紙にくらべてその収集方法が容易なうえに、コストも低い。紙コップとプラスチックカップ、紙パックかペットボトル、ちょっと考えてみては。

リサイクル可能な物の代表にアルミ缶がある。日本ではその9割近くがリサイクルされている。電気の缶詰という言葉に要約されるように、アルミ缶の製造には相当の電力を消費する。しかしそのリサイクル家庭においては、ほとんど電力を使わず、じつはかなりの優等生なのである。しかもその高い収集率、リサイクル率は平成の大不況、失われた15年といわれる経済が低迷期に入ってから達成された。その背景にはホームレスの増加があるといわれている。たしかに街中を歩けば、空き缶で一杯の袋をいくつも自転車にぶら下げて、よろめきながら歩道をいっぱいに使っているホームレス達を目にする。たしかに最近道路に落ちている空き缶の数が激減した。

不況を脱したと沸く日本、その今後を見守りたい。

Sunday, November 12, 2006

Kafe


最近バイトを始めた。

大学の図書館に併設されているのだが、
さすが、と言おうか、
様々な人がやってきて、
様々なものを買い求めてゆく。

その時その時が
新しい出会いで
面白い。

人は見かけで判断しちゃだめ
とかなんとか
小さい頃に聞いたような気がする。
確かに。

しかし、
こうゆうバイトも
おかげ様で地元福岡で
2年近くやっていた自分。

ぱっと人を見て、
そこからありったけの情報を
見て盗る術を
体得している。

外見から
どういった情報を得るか。。。

性別や人種といったものが
まずあきらかであろうか。
そして年齢(層)
服装にも結構その人の
仕事柄だったり、習慣をみることがある。

カフェに来る人達。
歩き方、
その挨拶の仕方、
メニューを見るときの仕草、
注文の仕方、
その内容、
お金の渡し方、
財布(普段見えないところだけにその人の性格がよく現れる)
飲み物を待っている時の行動、
そして受け取った後の行動(まずちょっと味を確かめる人、砂糖等の量、ふたを外して飲む人、つけたままな人、コップを持つ位置、マドラーの扱い、etc...)

特に
日課としてやってくる人は、
観察するごとに、
その人物像がはっきりとしてくる。

僕が福岡にいたころ、
新人さんが
つまらんのなんのと
言っていたのを思い出す。

ちょっとしたレジのやり取りで
これだけ面白いのだ、
なんて贅沢な。

今、福岡を離れて、
アメリカの大学でまた
そういった小さな出会いを
日々、重ねている。

まったく異なるカルチャー
そして異なる環境においては、
これまでの常識が非常識になり、
非常識が常識であったりする。

人種のるつぼ

僕は日本人だ。
福岡からやってきた!
そのプライドを背に
目の前の壁を
乗り越える。
そういやぁ轟先生が
外に出たら、看板をしょってるとか
言ってたっけ。
今僕は、
九大という、
福岡という、
そして日本人という
看板をしょっているのかな。

そんなに重くないけど笑

そうやってその日暮。
今週はアメリカの
キャピタルに
乗り込んでやろうと思う。

そしてまた、
僕の常識が一つ
音を立てて崩れる。

Conversation①



Sity - Hey Naoya, where do u live? On campus??

Naoya - Yeah, Northwood apartment.

S - Really?! I live in Northwood, too!
So Northwood Ⅲ??

N - Yeah...

Lexi - I live in Northwood Ⅲ also.

N - Which building? I'm in 2155.

S - I'm in 2155!

L - I'm in 2155!

N,S, and L - (Laughter)

Thursday, November 09, 2006

ARAKIMENTARI


荒木 経惟
アラーキー

    エロス

     愛

   死

    女

       性
  
  母


 
    苦
              色

      楽

  静


彼の愛に対する考えは
なんかよく解る気がする。
だからその色が出るのかなぁ。

生きてるってことなのかなぁ

Monday, November 06, 2006

Better technology? Better quality?


前々回あたりに書いた
Indoor air pollution の問題。

いちおう一般的な情報に
言及するに留めたが、
僕が考える環境(問題)ってものからすれば
あんなものは全く必要ない。

今僕らが必要とする環境政策っていうのは
産業においてであって、
個人の生活うんぬんではない。
発展途上国に対する
技術の提供。
考えただけでも
おそろしい。

人間は道具を発明して以来
爆発的に人口を増やした。
食物連鎖の頂点に
躍り出ると、
自然を支配し、
当然の結果である生態系の
アンバランスに怯え、
さらに技術をもってして
現状を乗り切ろうとする。

保護なのか、再生なのか、リハビリテーションなのか、
まずはっきりしない。

先進国は
発展途上国に、
富裕層は
貧困層に
その価値を押し付ける。
そして、
美しいものを
破壊する。

太陽光を例にすると、
そういったものが途上国
貧困地域に普及して、
いわゆる
Indoor air quality
が改善されたとして、
その後の影響にまで
先進国は責任を負うのか?

もし負うのであれば
どうぞ、と言いたい。

しかし現に
先進国はその技術をもってして、
発展途上国の
栄養事情を、
医療の質を、
ぐんぐんと同レベルまで引き上げて、
高出生率、
低乳幼児死亡率を実現し、
平均寿命もうなぎのぼり、
そんな社会を作り上げた。

人口爆発
そんな言葉を教科書で見た。
原因は・・・なにやら
難しい言葉を並べているが、
はっきりと先進国の
無計画、
自己満な
環境政策の
結果だと言ってくれればいいのに。

でたらめな数字を
目標に掲げて、
それを達成することで
自己満足に浸る。
内の目を
外に向けさせる。

彼等は
ずぅっと昔から
同じ生活をしてきた。
そこに突然
横文字でよくわからん
組織の人間がジープに乗って
やってくる。

薪を使うのは
非常に健康に悪いと
急に見知らぬ人間が
彼等の健康の心配をする。
よくわからないからというと、
今度はCO2がなんとか、
先進国ではどうのと、
わけのわからんことを
延々と説明する。

結局
言われるがままに。

しばらくすると、
森は焼いたらだめだ、
この動物は
殺しちゃいかん、
この水はだめだ、

更には
ここに住め、
これを食べろ、
この道具を使え、

人々は
混乱して
どうしていいのかわからない。

ただ
言われるがまま。

世界の人口は65億を軽く
超えてしまい、
その人口を十分に
養えてない。
昔、そんなアンバランスさを
表した世界地図が
あった。
そんな気がする。
なんともおかしな地図だったなぁ。

環境を考える時、
先にも述べたように、
保護なのか、
再生なのか、
リハビリテーションなのか、

そして
全体なのか、
地域なのか、
個人なのか、

まずはっきりさせる必要がある。

そして、
特に
地域や個人といった
小さな単位になればばるほど、
将来的に
数字(量)における目標は
達成したとしても
質において、
悪化させる
そんなリスクが非常に多いことを
頭に置かねばならない。

人間が
何かを諦めることが
出来るたびに、
少しずつ
地球は美しさを取り戻すのかもしれない。

それが環境問題に対する
僕らができる、
そしてもっとも効果的な
ことなのかもしれない。

でもそれには
相当の覚悟がいる。
きっと僕には
無理だろうなぁ。

そんなことを考えると
外が明るかった。
今こうして
一杯の熱いコーヒーを
飲めるのは、
過酷な環境で
豆を育ててくれる人がいるから。

Friday, November 03, 2006

Chicago④


シカゴの街を気持ちよく歩ける理由の一つは
ゴミの少なさではないだろうか。
歩道なんかに落ちているゴミを
滅多に見かけないのだ。

他の大都市らしからず、というか


そんな街の名物が
シカゴピザ。

ディープディッシュの
ボリューム満点なシカゴピザの
生みの親は
Pizzeria UNO
本店は流石の風格で、
お洒落なシカゴ市民で
にぎわっている。

今回はそんなダウンタウンの
お洒落さんとは一味ちがう、
街の外れでひっそりとやってる
隠れ家的なお店。
その名も
Chicago's Pizza

電車を乗り継いで、
駅からも歩くこと10分。
周りの店も閉まって
ひっそりとした郊外の通りで
その店のネオンが
まぶしい。

メニューを開いて
そのトッピングの多さに
目を見張る。
今回の連れは
ベジタリアンということもあり、
ほうれん草と
マッシュルームを注文。

ディープディッシュな分
余計に焼く時間もかかるので、
おつまみをくれたりする。
なんやろ~って期待して・・・
出てきたのは
パン。

これから食べるのはピザだろう~とか
みんなの心の中にちょっとした疑問が浮かんだのは
表情を見ればすぐにわかる。
でも腹をすかしてやってきた僕ら。
とりあえず一片。。。
手を伸ばす。
う、うまい!
とりあえず
会話でごまかそうとするも
皆の手は自然とそのパンに・・・

それらをきれいにたいらげた頃、
お待ちかねのピザがやってきた。
キルフェボンのタルトを
食べたことある人、
あれひと回り大きくして、
厚みを2倍にしてもらったくらいの
ピザを考えてもらったら
よいでしょうか。

しかもそれを2枚頼んで、
パンを平らげてしまった僕らは
その場で絶句。
もう見ただけでお腹いっぱいや~

そんなピザを熱い内に口に運ぶ。
今まで食べたどのピザとも違って、
今まで食べたどのピザよりもおいしかった。
結局それを2ピース食べて
ギブアップ。

アメリカってでかいだけじゃないんや~
とかちょっと感心した。
失礼しました。
こんなうまいもんがそばにあったら
そら太ってもしょうがないかな。

でもこれで満足して
ミシガンに帰れる。

もっと書くことはあるのだけど、
とりあえず今回の
シカゴ日記はこの辺で。
いや、怠慢さが原因なのですがね。

他にも書くことが山のようにあるので。