Monday, September 17, 2007


この夏は海へ毎週のように行っている。

暑さという言葉では到底表現しきれない、じっとりとした重い空気が体を覆っているせいか、どうにも山へは足が進まない。

もちろん海に行っても暑いことに変わりはないのであるが、海には風がある。夕暮れ時になると、山から下りてきた風が心地よい。空は広く、色は1秒も同じでなく、まさに刻一刻と変化し続ける。打ち寄せる波も一つとして同じものがない。

遠くには漁火がポツリ、ポツリと街頭のように輝きはじめる。

Monday, July 30, 2007

感謝




ありがとうと言うのは簡単なこと。

ありがとうの気持ちを伝えるのも簡単なこと。

ココロから素直に感謝したい時に、

ありがとう

その一言を相手に向けるだけ。

そんな簡単なことが、

なぜかできない。

Friday, June 15, 2007

あと一歩

あと一歩。

そしてもうあと一歩、

前に出ることが大切なのかなぁ。

でも、

ずっと向こうにある光ばかりを見ても、

足元は真っ暗なんだなぁ。

Thursday, May 31, 2007

月が替わりました

あっという間の1ヶ月、

それだけ充実しているということだろうか。

そんな5月の終わりの日に笑いがひとつ。

真っ白な笑顔と、

澄み切ったその声で、

ぱっと周りを明るくする。

彼女の名前はコノハちゃん。

ありがとう。

また明日から頑張れそうです。

そろそろ腰を落ち着けて、机に向かいます。

Thursday, May 24, 2007

それ

遠いところにある、それ

もうちょっとで手が届きそうで、

でもなかなか指先がかする事さえない


目のまえにある、それ

色も形もわかるのに、

いったい何だろうか


きみの手元にある、それ

大事そうにかかえて、

きみはそれを離さない


あれでもなくて、

これでもない、それ

僕の頭から離れない

Tuesday, May 15, 2007

時間の大切さ

最近どうも時間の使い方がうまくない。

無駄にしているという感もないのだが、
もっとじょうずに使えるはずなのだ。

しなければならないこと

したいこと

今できること

まずはそのどれもに当てはまることからか。

整理するために、
海に行ってみた。

黄砂で霞む向こう側に、
積み上げられたコンテナのモザイクがうかんでいた。

Tuesday, May 08, 2007

できること

たとえばあるとき、突然ふらと出かけたくなる

友人に話を持ちかけると、あっさり承諾

日時を決めて、車を走らせる

今回は久々の本州、行き先はまだ未知の地、山陰。
とりあえずの目的は出雲大社

ほんとうは行きたいコーヒー屋さんがあったのだけれど、
残念ながら火曜日はお休みとの事

地味にまとめられた境内は上品で、
加えて歴史の重みというか、
ココロに何かどしっとくる

大田市に残る石見銀山跡
周辺の古い町並みは、
陽に照らされた新緑に映える

立派な門構えの家々、
こども達は寺に集まって輪を作る

ところどころに、
オブジェがおかれ、
古い民家を利用したカフェからは
ジャズが流れる

でもそのどれもが、不思議に調和して、
一つの集落を形作る

長くのびる一本道は
緑に光る山と深い青の海とを、
つぎはぎのフィルムのように
見せてくれる

角島で夕陽を見たい・・・

太陽が重力に引っ張られて、
その落ちる速さを増すごとに、
僕らもアクセルに力が入る

深い山を右に左に

ぱっと視界が開けると、
黄金色に輝く日本海が目の前に広がる

まっすぐにのびる真っ白な橋
でもそれは太陽になぞられてスペクトルをたどる

そんな橋の上から見た夕陽は
今まで見たどれよりも大きく、美しかった

Monday, April 30, 2007

Fukuoka



帰福してあっという間の1週間だった。

街を歩くと、あちこちで

「おかえり」

と声をかけてもらう。

帰るところがあるっていうのは

本当に幸せなことだと思う。



写真:近所の藤棚には立派な花が垂がってました。

Tuesday, April 10, 2007

Innateness

久しぶりに遊んでみました。

Friday, April 06, 2007

KIKUJIRO

北野武監督の「菊次郎の夏」(1999)を久々に観ました。

彼の作品で、僕が一番好きなのは「Dolls」なんですが、

何か通じるものがあります。

しかし久石嬢は本当にすごい。

Thursday, April 05, 2007

Sin Country

なんとか犯罪学のレポートを仕上げた。

理論と実際の刑事制度がどう結びついているのかを
分析する内容のものだったが、
あえて古典的な犯罪論を選んでみた。

18世紀後半、ベッカリアとベンサムまで遡る。
当時はまだ個人主義的な制度でしかなかったが、
それでも彼らの唱えた刑罰の合理性は、
200年以上経った現在の刑事裁判制度にも
強く反映されている。

・・・とまぁややこしい内容はいいとして。

次のレポート。

東洋と西洋の美術を比較。

これ一応言語学のレポートなんだけどね。
ちなみに比較の対象は

狩野山雪 「老梅図」
   と
Corot 「Diana and Actaeon」

どちらもニューヨーク、メトロポリタン美術館所蔵

どうなることやら。。。

Wednesday, April 04, 2007

Coherence


学期末のためか、
最近レポートに追われている。

毎度のことであるが、
語彙の少なさに悩まされる。

微妙な表現の違いだったり、
曖昧さを避けようとするが、

頭の中にあることを
そのまま紙の上に吐き出すことができない。

どうも首尾一貫性がなく、
論点が途中でずれている。

なんとも幼稚な文章で、
他人様に読んで頂くには到底及ばない。

言語の違いのせいにしたいが、
これは今まで自分がサボってきたツケだろう。

せめて日本語では・・・
水村美苗さんの文章が懐かしい。

Monday, April 02, 2007

3 weeks to go

陽の光で目を覚ますことの幸せ。

でも何かがちょっと違っている。

そろそろ

ラストスパートですか。

あと三週間後に待っている空を

時々見上げる、

そんな余裕は残して。

Sunday, April 01, 2007

Frangrance Azul


4月はなにかと新しい季節

昨日雨が降ったせいか、

今朝は濃い霧に包まれていた。

しっとりとした空気を

すぅっと

おなか一杯に吸い込む。

しばらくすると

明るい光が差し込んで

窓辺のグラスを映し出す。

水分をたっぷり含んだ草木は

太陽の光に照らされて

一気に青々と輝き

それが空の深みを増す。

新しい季節

ちょっとうれしくなって

いつもと違う道を歩いてみたり


*写真は昨年の4月、中央公園にて

Wednesday, March 28, 2007

Personal Space

僕は他人と距離を取るのが下手である。

自分の物差しをいつもあてはめるもんだから、

つい相手の入って欲しくない領域にも

ずかずかっと入り込んで、汚している。

そのくせ

他人が自分のPersonal Space(以下PS)に入ってくると、

なんとも気持ちが落ち着かない。

こんなわがまま通せるのも、

ほんとに友達のおかげだと思う。

みんな笑ってくれている。

さて、難しいことはやめて、

物理的な距離ってことでのPSについて

少し考えてみたい。

僕は人が好きで、

よく友達とカフェに座っては、実のない話に

花を咲かせている。

でも物理的にある一線を越えて相手が近づくと、

急に身体が固まって、

話も聞こえないし、

いわゆる挙動不審ってやつに陥る。

例えば横に並んで歩きながら話しているとき、

ふと相手の方に顔をむけて、

思ったよりも近くに、目の前に相手がいたらもう駄目だ。

まっすぐ歩くことはもはや出来ずに、

適度なPSを保ちながら歩くことばかりを考えてしまう。

結果、よく歩道から出てしまったり、

相手の反対側に回ってみたり、後ろを歩いたり、

もう平静を保てない。

全くの他人ならばある程度の距離は

誰にも必要だろう。

良い例はエレベータだろうか。

エレベータに乗る時に、もし先に誰かがのっていたら?

ほとんどの人が先に乗っている人の

対角に立つのではないだろうか。

僕は旅行が好きだし、

飛行機が大好きだ。

でも、すぐ隣に知らない人が座るあの空間、

どうも緊張しっぱなしで、眠れたためしがない。

カフェでテーブル越しに、カウンター越しに話す。

それくらいがちょうどいい。

Friday, March 23, 2007

Moral


モラルは社会によって作られる。

それは一定の形を留めることはないし、

ユニバーサルにもなりえない。

このプラトニックな問いを

様々なスケールで用いることは

ほんとに難しい。

日本人としてのアイデンティティと

外国人としてのフレキシビリティ。

国際人として

何が求められるのか、

グーグルじゃわからない事がたくさんある。

Thursday, March 22, 2007

デザインが語るもの

 2.デザインとアート
このようにオーナメントはそれを所持する者の権力や地位といった抽象的な概念をビジュアル化したもので、具体的な形にはなりえない。そしてそれを見る者の解釈によって、双方の関係を決定するのである。一対多数の関係において、オーナメントの持つ役割は大きい。アートは視覚的な表現の解釈という点においてはオーナメントとあまり違わないようだが、アーティストがコミュニケーションの主体となっている点においてはその役割を全く異にする。つまりアートはアーティストのアイデンティティーや思想をビジュアル化したものであって、所持者のステータスを象徴するものではない。そしてもう一つ重要な点は、オーナメントはデザインの上にのみ存在するのに対し、アートは必ずしもデザインを必要としないことである。アートはコミュニケーションの主体であるが、それは必ずしも一対多数の関係を必要とするものでないし、社会的な役割を持つ必要もない。そのためデザインの持つ実用性と独立して存在するのである。あくまでも視覚的な表現であるため、アートはデザインの上に存在することももちろん可能だし、それを包括することもできる。こうしてアートというコミュニケーションの手段を手に入れることで、人類の視覚文化は飛躍的に豊かになった。今「文化」という言葉を用いたが、このことはパラドキシカルな要素を持つ。文化=カルチャーは個人において存在することはなく、常に社会によって形成される。つまりアートはその存在する社会を反映した一方的な視覚表現文化ということができ、多くの場合社会的、政治的なイデオロギーを持つ。そして資本主義社会が形成される過程において、アートの持つイデオロギーは、デザインの持つ実用性との関わりをより深めていくのである。

Sunday, March 18, 2007

Visible Sound

音を観る

ちょっとおかしく聴こえるかもしれない。

僕もつい先日まで、音は聴くものだとばかり思っていた。
もちろんそれは間違っていないが、それだけでもないのだ。

友人の卒業前のリサイタルに呼ばれた。
彼女が演奏するのはパーカッション。
僕は音楽には疎いのだが、マリンバとヴィブラフォンだったと思う。

会場が小さいということもあって、
彼女とかなり近距離に座る。

僕は普段コンサートでは、
安い学生席に座るのだが、
とりあえず音が聴こえれば一緒だろう、と満足していた。
時には目を閉じて、耳に音を集中させる。

どうやら今回は様子が違いそうだ。

ステージに彼女が現れる。
黒のパンツに黒のシャツ、
いつも降ろした髪をきゅっと上で束ねている。
これから演奏するというよりは、舞台の黒子のよう。
しんと静まり返った空気
彼女は一言も発さず、
深々と頭を下げると、
4つのマレットを手にする。

マリンバの前に立つと、
大きく深呼吸し、
ゆっくりとマレットで空気をなぞる。

その時から、彼女とマリンバとの間で対話が始まっていた。

僕の身体が緊張で震える

彼女はマリンバに向かって強くうなずくと、
勢いよく息を吸い、
マレットを大きく振りかざす。

会場の緊張はピークに達する。

しかし彼女はその手をゆっくりと降ろし、
そっと、マリンバの上を滑らせる。
一つ一つの音が彼女と、そして会場の空気と共鳴する。

僕は彼女から目が離せず、
マリンバの音を聴くよりもむしろ
彼女とマリンバとの間の会話、
いや、むしろフィジカルなコミュニケーションを、
視覚的にとらえる。

僕の頭には
なぜか歌舞伎が浮かび、
目の前の光景は
超音楽的な、
今まで感じたことのない世界であった。

共鳴がやむと
彼女はまた深々と頭をさげて
闇に去っていく。
いつのまにか僕の手は
汗がにじんでいた

Friday, March 16, 2007

Gordon-San

昨日ベアテ・シロタ・ゴードンさん(Beate Sirota Gordon)のお話を
聞かせて頂いた。彼女の経験はいくつか本にもなって出版されているし、
どうやら映画かもされたようなので、名前を聞いたことがある人も多いのではないだろうか。

簡単に言えば、
その日本語能力をかわれて戦後GHQの元、
若干22歳にして憲法草案の作成に携わった女性。

女性の地位の確保に尽力し、
その功績は、日本国憲法第14条、24条に集約されている。
ちなみにここで、その評価を行うつもりはない。

幸運にも最前列の席
僕の目の前に姿を現したその女性は、
一通りの紹介が済むと、
ざっと室内を見回した後、
ゆっくりとその小さな口から言葉を紡ぎ出す。

83歳という年齢とは思えない。
凛としていて、
外から見ても、芯がしっかりとした女性だと分かる。

内容に関しては、
本に書かれている以上のことはないが、
やはり本人を目の前にすると、
迫力がちがう。

講演の後、
少しだけお話をする機会を頂いた。
といっても、帰り際の彼女を捕まえて。
ほんの立ち話程度。

今の僕と同じ年齢で、
日本の憲法草案に関わった女性。
彼女の前に立った途端に
何もかもが恥ずかしくなってしまった。

そんな僕を、
ベアテさんは笑顔で、
「がんばってね」
そう言って帰っていかれました。
何か大きなものを得た、そんな気がします。

Tuesday, March 13, 2007

POLITICS

ほんとに日本の政治は見苦しい。

大体国会の答弁をなんだと思ってるのか。

ガキの喧嘩か。

野党はもう少し別の視点をもてないのか。

腐ってそう長いわけではない。

過去の政治が結果として間違っているかどうかの議論はさておいて、

体制として

特に80年代後半以降、

見苦しい。

Sunday, March 11, 2007

BODY


デトロイト市内の科学館に行って来た。

目的は「人体の不思議展」

日本でもかなり人気の高い展示ではないでしょうか。
数年前に福岡で行ったのですが、
その時の興奮を今でも覚えています。

週末ということもあり、
さすがに館内は人であふれていました。

改めて、
人間の身体ってよくできてるなぁ~
と感じさせられました。

デトロイトってこともあるんでしょうか、
液体樹脂によって、プラスチック化され、
並べられた人体を見ているうちに、
頭の中では人体の製造工場が浮かんでました。

車の工場のように。
ベルトコンベヤーに乗って、
等間隔で、次々と人体が出てくる。
違いがあるのはサイズだけ。

髪の毛とか、皮膚とか、脂肪とか、
そんなのは後付け。
「中身」はけっこう似たようなもんだなぁ~
そんなことを考えてました。


そういえば、展示の会場は
日本でいう「青少年科学館」みたいなとこ。

日本では博物館での展示だよなぁ~
そうやって展示する場所が違うと、
同じものでも、
見方や、感じ方が
変わるのかな。

たとえば印象派の絵を
科学館に展示してみる。
解説はもちろん科学的、
そんなのがあったらきっと面白いだろうなぁ~

ちなみに写真はLucas CranachのAdamとEve
(the Art Institute of Chicago)

Friday, March 09, 2007

ANDY


久々に本屋さんをぶらっと。

前々から気になっていた本を購入。

「The Philosophy of Andy Warhol; from A to B and back again」 (Andy Warhol, 1975)

まぁ読む時間はないのだろうから、

帰福の際の飛行機でのお楽しみに取っておこう。

アンディの美術館にはとうとう行けなかったなぁ。

デザインが語るもの


1.デザインとオーナメント

 人類が道具を手にするようになってから、常にデザインは存在し続けてきた。デザインとは生活の中にある実用性の形であり、そこには視覚的な効果も必要なければ、アイデンティティーを主張することもない。しかしデザインは常に一定ではなく、生活の変化に伴い、常に新しい実用性を形にしてきた。まだ生活の基本が採集と狩猟であった頃、デザインは単純な武器や道具、衣服として存在した。当時は常に獲物を求めて移動が強いられていたために、小規模な集団による共同生活であった。農耕によって定住生活が可能になってからは、さらに複雑な道具が生まれ、居住空間を作り出し、そしてストックのための容器が作られる。移動の必要性がなくなったことから、より大きな単位の集団が誕生し、それまで協力的であった生活も、ストックによって競争的な生活へと変化する。集団は内部においてのみならず、近隣の集団とも階層的な関係を持つようになったのである。社会がより複雑な階層性を持ち、より大きな規模になると、少数の上位層が大多数の下位層を支配するには、物理的な量や力そのものよりも、その力や豊かさを象徴する抽象的な要素が必要となる。最初は単なる税としての穀物や生活用品の納付も、次第に量よりも「形式」が重要視され、儀式的な要素が多く取り込まれた。そして「儀式」の際に使用される容器や道具は、実用性というデザインのみを備えたものであったが、その表面には細部まで凝った模様が施されるようになる。これがオーナメントである。オーナメントは複雑さを増すごとに、より高度な技術を必要とし、より多くの労働や努力が加わることになる。そして集団内部において自己の存在の優劣を象徴するのはもちろん、対外的にも豊かさや権力の強さを示す役割を持つのである。しかしオーナメントはデザインと違い、実用的であることはなく、視覚的なものでしかない。そしてオーナメントがどれだけ複雑であっても、象徴するのは決してそれに関わる技術者や労働者のアイデンティティーではなく、あくまで所持者のステータスなのである。オー ナメントはごく一部の人間関係においてのみ意味を持つのであり、所持者の権力や利害と全く関係ない存在にとっては何ら役目を果たすことはない。

Wednesday, March 07, 2007

KEJIME

楽しい時間は速くすぎてしまうもので、
いつものように図書館に戻ってきたのだが、
なかなか現実の世界に自身を引き戻すのは難しいものである。

そして半端な気持ちでやってるもんだから、
フィジカルな負担もかなり大きい。

あと6週間。

そう自分に言い聞かせる。
昔からそうであるが、時間の使い方がとにかく下手くそだ。
結局何の特にもならない皮算用ばかりを繰り返して、
時間という貴重な資本を失う。

こんなことなら、せめてゆっくり睡眠をとったほうがマシなのか、
でもそれはそれでどうも踏ん切りがつかない。

そういえば、
けじめって
不思議な言葉だよなぁ・・・

Tuesday, February 27, 2007

無駄

今日は1日とことん無駄にしてみた。
たまにはそれもいい。
特にな~んにもしないで、
コーヒーをすすりながら
窓の外の退屈な景色を眺める。

なんとなく
昔の友人のことや
以前訪れた場所のことを
思い出したり。

今から何しようか
考えて、
でも結局何もやることが
見つからずに
また窓の外にぼ~っと目を遣る。

2ヵ月後、
福岡に戻った自分を想像してみて、
何をすべきか、
何をしたいか、
何ができるか、
そんなことをぼんやりと考えながら、
時間を過ごす。

たまにはそんなのもいいと思った。
やみつきになりそう。
明日からはまた気を締めてゆかねば。
また思い切り無駄な日のために。

Monday, February 26, 2007

home, sweet...


やっぱし
家はいいなぁ

明かりが違うね。

やっぱし
家族っていいなぁ

匂いがちがうね。

Sunday, February 25, 2007

noir


ちょっと待ってよ
僕が言うと
君はすぐ
立ち止まる

君の背中に一歩近づくと
空気がぎゅっと押し潰されて
息が詰まる

ずしっと重たくて
ぬるいようなその空気の中を
かきわけながら
一歩ずつ近づく

だんだんと
熱を持って
息苦しさが増す
まるでサウナのように

さっと目の前が暗くなる
そして
黒は大きさを増して、
周りを飲み込んでゆく

僕を
包み込んでゆく

Saturday, February 24, 2007

デザインが語るものに関して


どうしてもタイムラグがあると、
文章がまとまったものにならないので、
来週の頭に一気に書き上げてしまいたいと考えています。

シンシナティに「帰郷」するので、
少しゆっくりと考えるのにちょうどいい機会なようです。
やっぱり気分転換ってのは大事だなぁ

最近
言葉が思った以上に様々なことを語るんだなぁと、
改めて感じさせられました。あくまで実際に発せられた言葉に関してですが。

そんなことを考えてるもんですから、
日常の会話の中でも、ほんとうにこまかい表現だったり、イントネーションだったり、
どうも気になってしょうがないので、
友人に迷惑をかけているようです。

Thursday, February 08, 2007

Institution


このブログを始めた頃から、
なんとも贅沢な環境で勉強させてもらっています。
特に他のアトラクションがあるわけでもなく、
勉強したい時に、好きなだけ。

こうしてみると、
やっぱり研究者っていうのも、
何か芯があると面白いのだろうなぁと考えます。
多分そんな選択肢は日本に帰ったら
消えてなくなってしまうのだろうけど。

特に言語学には
日々、目から鱗の連続です。
しばらく忘れていた、もしくは感じることのなかった、
新しい知識への
素直な驚きとか、
そういったものが今、当たり前のように溢れている。

日本に帰ってから、
また違った姿勢で臨めそうです。
なんかすっとした。

Tuesday, February 06, 2007

It's been 22 years now...

ということで、
いつのまにやらもうこんな年になっていた。
まずはやはり、22年前、お腹を痛めて僕を産んでくれた母に感謝。
そして、女手一つでここまで育ててくれた、やはり母に感謝。
なんだかんだで今が一番。
そう思えることは幸せやなぁ~

僕自身の22年間なんて、
今ここで振り返るなんて必要ないし、そうするつもりもないので、
22年前を考えてみる。
確か所さんのなんちゃらって番組でそんな企画があったなぁ。

1985年
思い当たるのは

Back to the Future
プラザ合意
男女雇用機会均等法


と、まあ中曽根さんが頑張っていた中、おぎゃあと誕生したのです。
でもこの円高によって、よりたくさんの人が海外に出るようになり、
それは僕の好奇心を駆り立てるきっかけにもなった。

さて、話は変わるが、
せっかくの機会なので、トップには僕の特にお気に入りな写真を載せてみた。

ありがとうございます。

Thursday, February 01, 2007

Got something to do?

タイミングってのは大事だなぁ~

たとえ失敗に終わっても、

今だって思える時は

とにかくやってみるもんだ。

Sunday, January 28, 2007

JE


どうも言語学というものを甘く見ていたようである。
そしてなんとも曖昧なものとして捉えていたようである。
知れば知るほど深みにはまってしまう。
日々、目から鱗の連続です。

そういえば、中国語を始めてみました。
とりあえず片方の手の指は使い切るくらいの数、
言語が話せるように。。。
一歩ずつです。

Friday, January 19, 2007

note


教育再生会議の第一次報告に関して、コメントを少し。
全体を通すと、
まずは七つの提言をひとつずつ。
①ゆとり教育を見直し、学力を向上する
具体的な基礎学力強化プログラムとして、習熟度別指導の拡充や地域の状況に留意した上での学校選択性の導入。まずひっかかるのが義務教育段階での習熟度別指導の拡充。高校受験を控えた学生達はともかく、その前段階で習熟度に大きなバラつきができることが問題。こうした教育の場における問題には常に教える側と教わる側に原因が考えられる。習熟度に関して言えば、まずは生徒の立場として、集中力というのが一番必要になってくるのではないだろうか。これが欠けると、肝心な要素をついつい見落としてしまう。集中力にムラができるのも、ADHDなど先天的、遺伝的なものでない限り、学校内外における生活の中に、気を散らす要因があるはずである。もしくは教える側の問題として、生徒の年齢、知識に応じて興味を引き出せないことが多いのかもしれない。加えて、習熟度別に指導する必要が生じるまで放っておくのもどうかと思う。先程も述べたように、生徒の集中力の欠陥に関しては社会的な要因が作用することが多く、それは様々な形でサインを出すはずである。義務教育期間は精神的にも身体的にも人生で最も成長する時期である。形式的に教える、教わるという関係だけでいいのか、それにはゆとり教育を見直すだけで足るのか、疑問がのこる所である。基礎教育に関しても、詰め込み、ゆとりといった「量」の問題でなく、「質」の問題がより大きいのである。
②学校を再生して、安心して、規律ある教室にする
出席停止制度を活用、警察と連携、反社会的行動を繰り返すこどもに毅然たる指導、といったことが挙げられているが、安心とは何か、規律とは何か、反社会的な行動とは何か、どれもが曖昧である。そして、曖昧がゆえにそのような原因はとりあえず排除しておけという。いじめを念頭においているのであろうが、いじめられる側のケアか、いじめる側のケアか、理想は常に両方を求めるのだろうが、後者の方が絶対的にケアの対象になるべきである。早い段階でいじめをキャッチするのは結構。その時に原因を隔離してもいたちごっこで終わってしまう。
③すべての子供に規範意識を教え、社会人としての基本を徹底する
「道徳の時間」の確保と充実、高校での奉仕活動、の必修化、大学の9月入学の普及促進を対策として挙げる。道徳の時間を確保・充実。これはまず道徳とは何か、規範とは何か、根本的なところから見直す必要がありそうである。現状の社会に合ったものだけではなく、これからどういった国家像を求めるのか、そして達成のためにどういった国民意識を持たせるのか、そして基本というからには、スタンダードが存在するわけであって、基準は何か。横並びの意識を維持するのか。それに加えて奉仕活動の必修化。何をどれだけこなしたか、量で測るのは簡単であるが・・・
④あらゆる手だてを総動員し、魅力的で、尊敬できる先生を育てる
社会の多様な分野から積極的、大量に教員採用、メリハリある給与体系で差をつける、不適格教員は教壇に立たせない。これは本当に矛盾を多く含んだ項目である。そもそも魅力的、尊敬の対象といった主観的な要素を、どう客観的に定義し、「育て」るのか。個性がうんぬんとぬかして、生活とかいう時間を設けたかと思えば、一方では理想の人物像を教師の側に押し付けて、画一化を図ろうとする。無理ならやめさせる。教える立場の人間にとっては、国家と学生の双方からの圧力によって身動きができない状況となる。そして国家は指針は示すが、責任は取らないという、なんともわがままな考えを通そうとしているのである。
⑤保護者や地域の信頼に真に応える学校にする
「教育水準保障期間」による外部評価・監査システムの導入、副校長・主幹等の新設、民間人校長など管理職に外部の人材を登用。管理職が外部の人間というのは義務教育段階においては恐ろしい。上で述べたように、結果的に画一化を図るならどうして外部の管理職が必要なのか。文科省から直接派遣した方がよっぽど正確である。また民間人の登用は、生徒にとって、教育の場という意識を薄れさせる。こうした空間におけるメリハリは、学校教育において最も重要な要素のひとつだと思う。
⑥教育委員会のあり方そのものを抜本的に問い直す
危機管理チームを設ける、教職員の人事権は市町村にできるだけ移譲、教委の基準や指針を国で定めて公表し、第三者機関の外部評価制度を導入。上の項目でも第三者との連携を含むが、これは体裁を整える目的以外のなんでもない。そして、この項目は最も危険な因子を含む。地域色を十分理解したうえで、それに応じた教育の在り方が重要な中、基準や指針は中央政府が決定するという。
⑦社会総がかりで子供の教育にあたる
「家庭の日」を利用しての多世代交流、地域リーダー(教育コーディネーター)の育成。これからの世代には、家庭や家族がどういったものなのか、どう教えていくつもりだろうか。安易にこれらの言葉を使って、子供たちを戸惑わせている気がする。地域における多世代交流がその助けになるのか。これまた学校といった存在を曖昧にする要因ともなりうる。

以上で早急に対策が必要なものとして、「五つの緊急対応」
「ゆとり教育」の見直し=早急
教育委員会制度の抜本改革=07年通常国会に提出
教員免許更新制導入=07年通常国会に提出
学校の責任体制の確立等=早急に国会に提出
反社会的行動をとる子供に対する毅然たる指導のための法令、通知等の見直し=06年度中

全体として、トップダウンの教育システムを強固なものにしようとするのだろうが、曖昧な「規範」や社会といった言葉を多用して、混乱を招くと共に、国民の質がさらに画一化されるのだろう。軍国主義かと見紛う様な政策もちらほら見られる。それに加えて、矛盾する地域との関連求める。繰り返すが、半端な連携は学校という教育の場をとにかく曖昧な存在にするのであり、学生の心理的な混乱を招くと共に、行動のメリハリに関しても欠如を招くのである。加えて、この階級的な教育システムが確立することによって、責任は上位へと来ない。問題は切り離すのみで、他にいくらでも補充が利く。まさに一方通行の恐ろしい国家体制が再建されようとしている。今後の行方が心配である。

Sunday, January 14, 2007

HISTARTE

最近写真をあまり撮ることがないので、
少し前の写真から、今の僕に合ったものを探してきています。
今ちょっと、考えることが多すぎて、
その考えをここにぶつけることもままならない、
そんな状況です。
言語の構造的な違いっていうのは、
思想にも影響するのでしょうか。
アジア地域において、
イデア論のような抽象観念が存在してないのは、
少なからず言語の根本的な性質の違いが影響するのか。
それとも単にプラトンのような存在がなかったからか。
例えば前者がある範囲で妥当するとして、
じゃあ僕らが日本語でイデア論をどう論じても
無理が生じるのか。
それとも言語の欠陥ということでなくて、
イデアという観念がそもそも必要なかったのか。
誰か教えてください。

Wednesday, January 10, 2007

Behind

僕はどうも表通りの雑多な雰囲気よりも
路地裏のひっそりとした感じが好きなようです。

一見きれいな通りと建物
でもその裏側には、
社会がありのままに、
あるべき姿が存在する。

最近どうも
感性が鈍っているようです。
どうも向こう側が見えなくなってきている。
それが写真になると、モロに出ますね。
いかんいかん

Sunday, January 07, 2007

Bottle Rocket


Wes Anderson初期の作品。

1996年。

Owen Wilsonのデビュー作品。

僕は彼の映画の中における時間の流れが大好きだ。
彼の作品は、個々のシーンがメッセージを持つことはない。
でもその一つ一つが何か色を持っていて、
時にはそれが形になって、
Anderson自身のココロを暗示する。

何か最後に予想外な展開になるのだろうなぁ、
そういった運びもまたいいと思う。
そして期待を裏切らない。
映画の途中で、何かが喉の奥につっかえてるんだけど、
最後のシーンになると、すっとする。

この初期の作品においては、
まだぎこちない展開であるため、
全ての固体がラストシーンで収束しきれないが、
とてもいい映画だった。

派手なアクションもない。
甘いロマンスだってない。
でも、日常のように描かれる「非」日常。
そこに交錯する感情。
でも皆何かしら1つの共通するものを持っている。
なにか大きな・・・それが目標であれ、夢であれ、また別のものであれ、
彼の映画は、僕が忘れかけていたような、
その何かをいつも考えさせてくれる。

何かおススメの映画情報あれば、
よろしく。

Saturday, January 06, 2007

info


今日はまだ時間にも気持ちにも余裕があるので、
僕の大好きな地図について少し話そうかと思う。

地図と一言で言っても、その表し方や用途なんかによって様々な種類にわけられる。
世界地図を考えてみると、たぶん僕等の頭の中には大体似通ったイメージが浮かぶのだと思う。
そして、僕らは「平らな」地面に足をつけて生活しているから、ついつい世界地図がそのまま地球というものに対するイメージと結びついてしまう。地球儀ってものにあまり慣れ親しんでないからだろうか、「世界」というものを思い浮かべる時、言い替えではあるが、頭の中にすんなりと球体という「立体」としてイメージする人はそうはいないものである。
地球は球体(正確には地球楕円体っていう少し歪んだ形)である。
その球体を無理やりに平面に描きおこすものだから、どうしてもどこかで具合が悪くなる。そのため世界地図はどこに視点を置くのか、面積や距離や緯度経度といった要素のどれを正確に測るのかによってずいぶんと態様が変わってくる。それぞれに長所、短所があり、用途に応じて使い分けがされるのである。
もうひとつ、世界地図を頭に思い浮かべると、僕ら日本人にとってはどうしても日本が真ん中(緯度の違いこそあれ)にあるのがすっとくる。でも他の多くの地域ではイギリスが真ん中にきていることがほとんどである。まあこれは単に自分の国が真ん中に近い方が見た目が良いって事なんだろうけど、結構面白いのは、日本やイギリスっていうのはなかなかいい場所に位置している(あくまで地図上で)なぁ、ってこと。たとえばインドなんかが自国を世界地図の中心においたらどうなるか。アメリカ大陸は地図の両端に真っ二つに割れて描かれることになる。これだとなんかしっくりこない。やっぱり大陸はきちっと収まった方がなんとなく、見栄えがいいものである。まあ実際日本もど真ん中にあるわけではなく、東経150°が真ん中にある(以上の話はあくまで円筒図法においてのみ)。僕等のイメージする地図ではどうしてもアメリカ大陸は右側に、ヨーロッパやアフリカ大陸は左側に位置してしまう。だから、僕らはアメリカとヨーロッパってのがどれくらい近いのか、あまりよく知らなかったりする。
ただし、飛行機であっちこっち飛び回ったり、旅行してまわらない限り、僕等の生活圏は世界の中でも、本当にちっぽけな地域においてのみである。日本地図でもまだまだ縮尺が大きすぎる。
余談ではあるが、世界地図や日本地図といった話をすると、いつも壱岐出身の友人が思い出される。彼は地図を描く時、かならず九州の少し北に壱岐をドットで示すのである。確かに、自分の生活圏から離れるほど、頭の中でのイメージは大雑把になってゆくのであり、日本から遠く離れた国の人々が日本の位置や形を示せなくても当然無理はない。
さて、話題を戻すと、さらに縮尺を小さなものにして、道路地図や市街図といったものが存在する。しかし、時にそれでは普段の生活において、余計な情報であふれていることがほとんどなのである。人に道を聞かれて、行き先までの地図を描くとき、必要な道路や交差点、目印となる建物や看板などが示されていれば、別に縮尺が正確でなくとも十分である。こうした、必要な要素を強調したものが主題地図と呼ばれる。実は地図の歴史もこの主題地図から始まった。詳細はここでは述べないが、こうした、客観的だったり主観的だったり、その情報によって、地図は大きく変容するし、逆に僕らが地図を読むとき、誤った情報を得るという可能性は大きいということだ。今は人工衛星の発達によって客観的には限りなく正確な地図情報を得ることができる。しかし、そこに統計的な情報が加わったり(例えば所得や人口密度による色分けなど)、主観的な(主題地図としての)要素が加わった時に、目の前の地図からどう必要な情報を読み取るのか、その手段が重要になるのである。
1枚の紙の上にあるマクロな世界、そして限りない情報、そこに魅せられてもう随分となる。まだまだ地図を読むことに飽きることはない。こうして時間を潰しながら、その向こうに何か大きなものを夢見ているのである。Google Earthとかほんとに毒。シュミット氏も余計なものを世に送り出して~。ありがとう。

Wednesday, January 03, 2007

reNEW


さて、年が替わりましたね。
皆さんも良いお正月を迎えられたことと思います。
今年のsLow、少し前年とは違った形にしようかなぁと、
そんな風に考えています。

といってもまだ特にアイデアがあるわけではないんです。

とりあえず1月の間ゆっくりと今年の目標でも考えよう、
それからこのブログをその目標達成のプロセスと関連付けて、
僕自身とともに、人生の、そしてブログのテーマにもあるように、
「ゆっくり」と前に進んでいけたらいいなぁと思っています。


前学期は環境政策の授業を取ったこともあり、
環境とか、生態系ってものの側面から人間の価値観や社会の盛衰を考えてみたんですが、
そういった事からいうと、今年前半は大きく転換しそうです。
僕がこんかい取る授業の中でも、特に関心が高いものが
犯罪学です。
なので、そういった観点から、人間の、そして社会の有様を探っていくことになるかと思うんですね。
そしてもう1つ、美術と言語っていう授業。これはフタを開けてみないと内容はわかりませんが、
これも頭の整理も兼ねて、ここに何らかの形を残していくかもしれません。

なるべく簡潔な文章と、
そしてどこかでヴェンダースを意識している写真を載せていくよう心掛けます。
前回の投稿の繰り返しになりますが、
どうかこの1年が皆さんにとって良いものになりますように、
失礼は承知で、微力ながらお手伝いできることを、願っています。
お互い尽力しましょう。

では、今年もよろしくお願いします。
管理人