Saturday, January 06, 2007

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今日はまだ時間にも気持ちにも余裕があるので、
僕の大好きな地図について少し話そうかと思う。

地図と一言で言っても、その表し方や用途なんかによって様々な種類にわけられる。
世界地図を考えてみると、たぶん僕等の頭の中には大体似通ったイメージが浮かぶのだと思う。
そして、僕らは「平らな」地面に足をつけて生活しているから、ついつい世界地図がそのまま地球というものに対するイメージと結びついてしまう。地球儀ってものにあまり慣れ親しんでないからだろうか、「世界」というものを思い浮かべる時、言い替えではあるが、頭の中にすんなりと球体という「立体」としてイメージする人はそうはいないものである。
地球は球体(正確には地球楕円体っていう少し歪んだ形)である。
その球体を無理やりに平面に描きおこすものだから、どうしてもどこかで具合が悪くなる。そのため世界地図はどこに視点を置くのか、面積や距離や緯度経度といった要素のどれを正確に測るのかによってずいぶんと態様が変わってくる。それぞれに長所、短所があり、用途に応じて使い分けがされるのである。
もうひとつ、世界地図を頭に思い浮かべると、僕ら日本人にとってはどうしても日本が真ん中(緯度の違いこそあれ)にあるのがすっとくる。でも他の多くの地域ではイギリスが真ん中にきていることがほとんどである。まあこれは単に自分の国が真ん中に近い方が見た目が良いって事なんだろうけど、結構面白いのは、日本やイギリスっていうのはなかなかいい場所に位置している(あくまで地図上で)なぁ、ってこと。たとえばインドなんかが自国を世界地図の中心においたらどうなるか。アメリカ大陸は地図の両端に真っ二つに割れて描かれることになる。これだとなんかしっくりこない。やっぱり大陸はきちっと収まった方がなんとなく、見栄えがいいものである。まあ実際日本もど真ん中にあるわけではなく、東経150°が真ん中にある(以上の話はあくまで円筒図法においてのみ)。僕等のイメージする地図ではどうしてもアメリカ大陸は右側に、ヨーロッパやアフリカ大陸は左側に位置してしまう。だから、僕らはアメリカとヨーロッパってのがどれくらい近いのか、あまりよく知らなかったりする。
ただし、飛行機であっちこっち飛び回ったり、旅行してまわらない限り、僕等の生活圏は世界の中でも、本当にちっぽけな地域においてのみである。日本地図でもまだまだ縮尺が大きすぎる。
余談ではあるが、世界地図や日本地図といった話をすると、いつも壱岐出身の友人が思い出される。彼は地図を描く時、かならず九州の少し北に壱岐をドットで示すのである。確かに、自分の生活圏から離れるほど、頭の中でのイメージは大雑把になってゆくのであり、日本から遠く離れた国の人々が日本の位置や形を示せなくても当然無理はない。
さて、話題を戻すと、さらに縮尺を小さなものにして、道路地図や市街図といったものが存在する。しかし、時にそれでは普段の生活において、余計な情報であふれていることがほとんどなのである。人に道を聞かれて、行き先までの地図を描くとき、必要な道路や交差点、目印となる建物や看板などが示されていれば、別に縮尺が正確でなくとも十分である。こうした、必要な要素を強調したものが主題地図と呼ばれる。実は地図の歴史もこの主題地図から始まった。詳細はここでは述べないが、こうした、客観的だったり主観的だったり、その情報によって、地図は大きく変容するし、逆に僕らが地図を読むとき、誤った情報を得るという可能性は大きいということだ。今は人工衛星の発達によって客観的には限りなく正確な地図情報を得ることができる。しかし、そこに統計的な情報が加わったり(例えば所得や人口密度による色分けなど)、主観的な(主題地図としての)要素が加わった時に、目の前の地図からどう必要な情報を読み取るのか、その手段が重要になるのである。
1枚の紙の上にあるマクロな世界、そして限りない情報、そこに魅せられてもう随分となる。まだまだ地図を読むことに飽きることはない。こうして時間を潰しながら、その向こうに何か大きなものを夢見ているのである。Google Earthとかほんとに毒。シュミット氏も余計なものを世に送り出して~。ありがとう。

1 comment:

Anonymous said...

メルカトル図法とかあったょね~って懐かしくなりました(笑)。一つのものでも何を中心に見るかによって捉え方が代わるんですね。。。当たり前だけど、普段はなかなか実感できませんね(笑)