Friday, September 29, 2006

#990066


教育ってのは受動的なものですかね
それとも教える側、教わる側の相互のやり取りがあって
初めて成り立つものなんですかね



知育、徳育、体育
食育
知識
宣言的(knowing that)か手続き的(knowing how)か

正しいか間違いか

才能
努力

学校
総合学習
規制 裁量
教育勅語、教育基本法

成績
GPA

社会、家庭、学校

年齢
生涯学習

詰め込みかゆとりか

権利と義務 
自由
学ぶ

学級崩壊 いじめ

戦争と平和が対義か

教科書問題
歴史
国策
愛国心   国旗・国歌
アイデンティティー



平等か 不平等か
差別?

表現
コミュニケーション
プレゼンテーション

暗記の限界
応用

alternative education

情報化
格差

必要/不要

ちょっと考え出すと難しいもんだな。
さて~目の前にあることから片付けよう。

10 comments:

Anonymous said...

教育って何だろうね。

「教」えられるというのは受動的な行為だけど、その教えによって「育」つ、つまり受け止めて消化しなければ意味がないので、やっぱり相互的なものなんじゃないかなぁ。

極端な話、小学生にラテン語を一方的に読み聞かせても教育とは言えないしなぁ。

学習ってのはまた違うよね。
「学」ぶとか「習」うってのは能動的だし。
自ら選び取るものという感じがします。

与えられた知識が必ずしも自分の望むものではなくとも、それによって自身が何らかの影響を受けたならば、それは教育と呼べるのではないかと思います。

Anonymous said...

「教」は「教える」と「教わる」
「育」は「育つ」と「育てる」
そのどちらもが成り立つと思います。だからこそ私は相互的なものだと思う!!
自分の受け止め方が全ての道の分かれ道。
なんてチャクいことを書いてみたり(笑)

ふみさんの言葉の「与えられた知識が必ずしも自分の望むものではなくとも、それによって自身が何らかの影響を受けたならば、それは教育と呼べるのではないかと思います。」はまさにその通りですね~v

ゆっきぃ said...

おふたかた!!
じゃあ今そうして
二人が考えてるものが教育だとして、
現状の教育事情はどうかねぇ?

バランスってのは大事で、
その相互ってやるのバランスが
あきらかに違っているのでは??
それに能動的な部分ってのも
ある程度のインセンティヴが
与えられたり、
周りの環境だったりするし・・・

じゃあ今の教育が間違っているか・・・
って聞かれたときに
必ずしもそうとは言えないんだよねぇ
だから難しいんやろうね。

ただ過去の歴史とか、その国、地域の文化とかのバックグラウンドをすっぱ抜いてる
教育は
やっぱりどこか違うんやろうね。

新政権。。。
そこらへんには期待していいもんなんでしょうかね。。。はは

Anonymous said...

ゆっきぃさんっぽいコメントですねぇv
嘘をつくってか、隠してるって言うのですかね??その点では今の教育は駄目なところも多々あると思いますけど………
新政権に期待??………の、能動的(笑)!?

Anonymous said...

確実に的をはずした意見で申し訳ないんやけどね、教育でちょっと思い出した。
高校の先生にね、「進路ってのは自分の可能性を少しずつ捨てていくことなんだ」って言われた。少なくとも私たち日本の国の教育体系ではね、例えば文理選択で半分の可能性を捨て、姉のように看護学校とか専門学校に行ったら、それ以外のみちを捨てることになるんだよね。学べば学ぶほど、自分の可能性を捨てていくのってとても違和感がある。もちろんやり直そうと思えば、またスタートラインに立つことはできるんだけど、すごく大変なことよね。小さな子供は自分の可能性を知ってて、大人になるほど、自分の可能性を
過小評価するようになる。自分の限界を、自分で下げてると思う。私も含めてね。私たちは一体何を学んできたのかね~?にいやん。

ゆっきぃ said...

>まゆみ
その先生はかわいそうだねぇ。。。
たとえばその先生の言うように、可能性を捨てていってるんだとしたら、最初が100ってことよね。
最初は0なんですよ。
色んなことを学ぶことによって、それは段々と100に近づくと。勉強することで、色んな道が開けると。進路と自分の可能性ってのはまったく別のものだと思うがね。
何でもできる人間なんておらんとよ。でも、学習していく中で、その時々で今の自分に何ができるっちゃろう~って考えながら、その先に進むんよ。
それが過小評価ってなら寂しいもんだがね。
スタートライン、良い言葉やね。
まあ人間みんな丸裸で生まれてきてるんやけど、その環境も全く違って、とても同じラインとは思えないが。で、同じゴールなんかってゆうとそうでなくて。スタートもゴールもばらばらよ。独走やんね~やけん負けとかはないとって。でもなかなかの長距離やけんね、最初はがむしゃらに走っても、自然と息継ぎの仕方とか身に付いて、ランナーズハイになるんよ。でも考えない人は、ずっとぜぇぜぇしながら無駄に体力つかいようとって。
途中で立ち止まってマッサージしたりとかってのも大事なことで、それを今僕らは学んでるのではないかねえ・・・
自分に合った走り方をみつけな苦しいだけよ。

Anonymous said...

日本だけなのかどうかは知らんけど、モデルコースを外れたら復帰できないって感じが怖いよね。

回り道して身に付くこともいっぱいあるのにねー。

Anonymous said...
This comment has been removed by a blog administrator.
Anonymous said...

教育とは「教える側」と「教えられる側」の相互的な自律により初めて成立すると思う。
ある高校で「先生がうちらのこと指導するのって結局金もらってるからやん」という生徒の発言に担任が沈黙してしまったという。

痛いところを突いたつもりの生徒。
だが教師も一つの労働であり、対価として賃金を貰うのは当たり前だ。いつまでも他人が自分の事をいつでも無償で考えてくれると思うのは社会への甘えだ。そのうち「社会は何もしてくれない」と言う前に、まず自分で自分を考えるべきじゃないか。

そして沈黙してしまった先生。
与えられるお金以上の熱意で学ぶ事や人生の楽しさを教えるのも教師だし、実際私の先生達は貰ってるお金が見合わないくらい、授業や話に熱意があった。
教師はお金のためだけじゃやってられない仕事の一つだろう。
沈黙してしまうのはおかしいんじゃないのか。

自分自身で考えない生徒
きっと本当に金を貰ってるだけの教師。
自律のない悪循環

ゆっきぃ said...

>みみこ
ふふ、不謹慎にもちょいと笑ってしまったよ。うん、教師の教育ってのはどうなんだろうか。